プロローグ:僕と、あの「他人事」の境界線
深夜、薄暗い部屋で、グラスに注いだ氷がカタカタと鳴る。そんな音を聞きながら、ふと考えることがある。「あいつらはさ、どうしてああなんだろう?」そう口にする時、僕らはたいてい、自分自身をその「あいつら」の外側に置いている。まるで、手の届かない遠い場所に、厄介なもの全てを押し込めるかのように。でも、本当にそうだろうか? 僕と、その「他人事」の間に、明確な境界線なんてものがあるんだろうか?
夏目漱石の古い本を、何度かパラパラとめくったことがある。**『吾輩は猫である』**。あの物語は、ただのユーモラスな猫の独白じゃない。猫の目を借りて、人間たちの滑稽さや身勝手さを眺める。その視線はどこか冷めていて、でも、やけに真実を突いてくる。そして、もっと過激な話をすれば、ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』の終盤。あの「ヤフー」という醜い化け物を見た時の、ガリヴァーの魂の叫び。「あれは僕じゃない。あれは人間どもだ」と。今回は、そんな二つの物語を道標に、僕らの内に潜む「自己認識のズレ」について、少しばかり深く潜ってみようと思う。
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第1章:『吾輩は猫である』──鏡の中の、見覚えのある顔
名前を持たない一匹の猫が、畳の隅から人間たちを観察している。主人の苦沙弥先生、その周りをうろつく友人たち。彼らの言動は、ときに愚かで、ときに滑稽で、猫の目にはひどく傲慢に映る。猫は彼らの会話を盗み聞きし、行動を分析し、そして、自分なりの結論を下す。彼はあくまで「猫」だ。人間とは違う。そう語り手の猫は主張する。
でも、どうだろう? その猫が語る言葉は、やけに理屈っぽくて、シニカルで、どこまでも人間的じゃないか。猫であることを装いながら、彼は人間そのものの視点から、人間を語っている。まるで僕らが、目の前の他人を批判するとき、知らず知らずのうちに自分の中にその要素を見つけ出しているように。猫は鏡だった。人間の愚かさを映す、少し歪んだ鏡。そして、その鏡に映っていたのは、他人の顔であると同時に、僕ら自身の見覚えのある顔でもあったのかもしれない。
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第2章:『ガリヴァー旅行記』──「あれは僕じゃない」という叫び
ジョナサン・スウィフトの**『ガリヴァー旅行記』**には、人間性の最も深い部分をえぐるような、忘れがたい章がある。主人公ガリヴァーが最後に辿り着く「フウイヌム国」。そこでは、理性と美徳を兼ね備えた馬たち「フウイヌム」が社会を築き、その支配下には人間の姿をした「ヤフー」と呼ばれる野蛮な生き物たちが、汚れて貪欲な存在として扱われている。ガリヴァーはヤフーの姿に衝撃を受け、激しい嫌悪を覚える。「あれは人間だ。だが、自分は違う」と、彼は必死に叫ぶ。馬たちにも、自分だけはヤフーとは異なると信じてほしいと願う。
しかし、物語は残酷だ。ガリヴァー自身が、まさにそのヤフーと同じ人間であることを突きつける。彼は自分を特別だと思い込もうとした。ヤフーの愚かさを、自分の内には存在しないものとして切り離そうとした。けれど、どんなに目をそむけても、ヤフーの汚れた肌、醜い叫び声、その全ては、彼自身の、そして僕ら自身の影だった。完璧に理解し、切り離したつもりでも、結局は自分の根源とつながっている。そんな苦い事実が、胸の奥底に突き刺さる。
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第3章:境界線の消滅──「自分は違う」と呟く時のパラドックス
猫は人間の浅はかさを笑うが、その「観察する」という行為そのものが、人間的な知性の証だ。ガリヴァーはヤフーを突き放すが、その嫌悪や怒りといった「感情」こそが、紛れもない人間の情動だ。
考えてみれば、僕らは常に「自分は違う」と口にする。他の誰かを見て、「彼らは理解できない」と決めつける。でも、その「違う」と思った瞬間に、すでにその「違い」を認識する枠の中に、僕らは取り込まれている。まるで、白い紙の上に黒い点を描き、「これは黒い」と認識した瞬間に、その点と僕らの意識が、すでに一つの関係性を結んでいるように。自己と他者の境界線は、僕らが思うほどはっきりしたものではない。それは常に揺れ動き、曖昧なまま、僕らを惑わせ続ける。
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第4章:「あいつらは…」──僕らの日常に潜む欺瞞
「あの人たちはこうだよね」「最近の若者は」「おじさんってさ」。僕らは日々、そんな言葉を口にする。無意識のうちに、自分をその対象の外側に置き、あたかも客観的な観察者であるかのように振る舞う。それは、自分を守るための、あるいは優位に立つための、ささやかな策略なのかもしれない。
でも、ちょっと立ち止まって考えてみればいい。「最近の人間はおかしい」と眉をひそめる時、僕らもまた、その「最近の人間」の一部だ。あるいは、「愚かな人間が多すぎる」と嘆く時、その言葉の裏には、「自分だけは賢明だ」という、どこか傲慢な前提が隠れている。漱石の猫も、スウィフトのガリヴァーも、結局は同じことを僕らに告げている。**自分を含まない批判は、どこかで必ず欺瞞になる、と。僕らが誰かを指差し、その愚かさを笑う時、その指は、いつの間にか自分自身を指しているのだ。
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第5章:自己を深く見つめるための思索の書
「吾輩は猫である、だが本当は人間であった」という自己認識のズレ、そして他者視点とのすれ違い。この深遠なテーマについて、さらに深く潜り、自分なりの答えを見つけるための本をいくつか紹介しよう。
夏目漱石『吾輩は猫である』
──猫の目を通して人間の愚かさを描きながら、読者自身の内なる矛盾を静かに問いかける、日本文学の金字塔だ。
ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』
──特に最終章のフウイヌム国での経験は、人間の醜さへの嫌悪と、それと地続きである自己への問いを、読者の心に深く突き刺すだろう。
モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』
──自己と世界、身体と意識がどのように交錯し、知覚を通じて僕らの存在が形成されるのか。その根源的な問いに深く切り込む哲学書だ。
ジョージ・オーウェル『動物農場』
──動物たちが人間社会の愚かさを模倣し、いつの間にか同じ過ちを繰り返す。これは、僕らが他人を批判しながら、実はその姿を内包しているというテーマにも通じるだろう。
これらの本を読むことで、僕らは「吾輩は猫である、しかし本当は人間であった」という逆説の中に、自己認識を深めるための、静かで、そして確かなヒントを見つけ出すことができるはずだ。
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エピローグ:世界と自分、そして「ゆらぎ」を受け入れること
「吾輩は猫である。しかし実際には、人間だった。」
「人間は愚かである。だが、僕はその愚かさを語る人間である。」
この二重の構造を深く理解した時、僕らはようやく自分の中に潜む“猫の目”や、“ヤフー的要素”を受け入れることができるようになる。それは、誰かを批判する時に、その批判の対象の中に自分自身も含まれているかもしれないという可能性を忘れないこと。そして、自分だけが「例外」ではないという、少しばかり苦くて、でも確かな事実を受け入れる勇気を持つことだ。
自己認識を深く潜るための最初の扉は、おそらくこの「内なる猫」や「内なるヤフー」と向き合うことから始まる。グラスの中の氷が溶けるように、僕らの世界と自分自身もまた、絶えずゆらぎ、形を変えている。その不確かさを丸ごと抱きしめることで、僕らは少しだけ、深い呼吸ができるようになるだろう。
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